合気道 ~ 文集 2011
合気道の夏休みは今日迄で、明日から稽古が始まります。
そして、後期の稽古始の日は全員がそれぞれの思いを書いた文集の原稿提出日でもあります。いつも提出期限ぎりぎりに書き上げるので、今年は早く済まそうと思ってはいたのですが・・・ 結局、今日になってしまいました(^^;
今年の文集は「リボン」と題して、長崎出身のシンガーソングライター・槙健一さんのことを書きました。
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リボン
どんなに風の中へ 悲しみ飛ばしても
この長崎(まち)はあの日を忘れない
涙に唄う歌は 明日への希望の歌
心に響けば 天まで届く
そして今 僕らが願いを込めた リポンが風に舞う
今日のために 明日のために 永遠のために ・・・・・・
長崎出身のシンガーソングライター、槙健一さんが作詞・作曲した「リボン」という歌の一部です。毎年8月9日の原爆記念日には「平和を願う歌」として何度も流れますから、一度は耳にされたこともあるかと思います。
「みんなは長崎は素敵な街だと言うけど、この街には原爆が落ちた歴史があって、平和の像が指を高く掲げて平和を祈ってるんだよ」という気持ちを込めて「リボン」という曲が生まれました。
彼を知ったのは、1995年に彼のデビュー曲「夢の吹く丘」を聴いてからです。長崎出身のこんなすばらしいアーティストが居たのかと、とても嬉しく思いました。
それから4年後、彼が体を悪くして長崎に帰り活動していると聞きライブを見に行きました。ライブが終わった後に彼と話をしましたが、彼の真面目で澄んだ目、そして礼儀正しい態度に感心しました。
その帰りに家内と「槙健一を応援をしよう!」と決めました。彼の歌だけでなく人間的な魅力に魅かれてしまったのです。 そして彼のライブを追っかけ、彼の応援ホームページなども作りました。
彼はデビュー前から、肺に穴が開く肺気胸という難病と闘っていました。入退院を繰り返し何度も手術をしながら活動を続けました。晩年は歌を歌うことも出来ない状態でしたが、音楽に対する情熱は高まるばかりで、音楽事務所を設立してプロデュース活動をはじめたばかりでした。しかし、2002年に32歳という若さで亡くなってしまいました。
彼の音楽は今、いろんな形で今も受け継がれています。最近は県内、県外の小学校や中学校でなどでも「リボン」を歌ってくれているところが多くなっています。また、槙さんが残した曲を中心に、弟の友博さんがTATSUMAKIというバンドで活動しています。
これからも、彼が残してくれた名曲「リボン」を始めたくさんの曲は、いつまでも歌い継がれると思います。私も彼が生きている時と同じように応援を続けるつもりです。
・・・ そして、彼がいつも口にしていたのは「戦争反対」ではなく「平和賛成」でした。
僕等が願う平和とは
些細な喜びであったり
夢を掴んだ瞬間であったり
他人の痛みを感じれる事であったり
自分の喜びを分け合えることだったり
心の豊かさのスペースは誰もが違う
そして僕等の願う平和とは
武器より軽く持ち易く
地球より重く大切なものである
槙健一